暴走族

お正月に向けてなのかなんだか知りませんが、昨日あたりからましゅまろちゃんの家の近くでは、暴走族がやかましく走り回りだしました。しかし、暴走族界も少子化の波の影響をもろに受けているらしく、10年前くらいまでは何十台という改造バイクやシャコタン自動車で隊列を作っていましたが、今は3台くらいのドリカム編成でバイクを転がしています。ちなみに、シャコタンというのは「車高短」が語源のヤンキー界隈の用語で、その名の通り車高が、駐車場から出るだけでもボディーの底をガリガリ擦るくらい低い自動車のことです。
こんな、社会の隅に追いやられつつある暴走族ですが、歴史は意外に古く、昭和30年代にバイクでジグザグ運転をしたり、夜中に轟音を出して住民の安眠を妨害したりした「カミナリ族」が始まりと言われています。当時は日本が戦後から復興していって、急速に豊かになっていく時代でしたが、まだまだ庶民の生活は貧しく、カミナリ族になるのは、バイクを買うことができる、金持ちの息子の「ブルジョアアウトロー」でした。それから日本が豊かになるにつれ、バイクが庶民でも手に入る物になっていき、暴走族と名を変えて急速に増殖していきました。そして、バブル景気前後に絶頂を向かえ、現在は数こそ減ったものの「珍走団」という呼称で「怖いんだけれど、どこかユーモラス」という、あたかもブルドッグのような存在として、脈々とその伝統を死守し続けています。
そんな暴走族ですが、みなさんはどんな印象を持っているでしょうか?迷惑をかけるだけの「社会のゴミ」でしょうか?たしかにただのゴミとも思うのですが、ゴミ問題を放っておくとよくないので、少しだけ、暴走族の気持ちも考えてみたいと思います。
どの時代、どの地域、どんな人数であっても、統計的に、芸術家とやくざの割合は必ず1パーセントほどは存在すると言われています。これは、通常の方法では自分の存在を表現できない人、普通の生活の中で、普通にコミュニケーションをとれない人が、いつでも1パーセントほど存在することを表しています。すばらしい芸術作品ができるのは、芸術家の「誰かわたしに気付いてくれ」という、ものすごい大きなエネルギーによってだと思います。だから芸術家は、世間一般から見ると、風変わりで何を考えているのかわかりづらい、という印象をあたえます。しかし、芸術家本人にとっては、世間の人たちこそ、普通に他人とコミュニケーションが取れる「驚愕の人たち」に見えます。その「驚愕の人たち」にも、どうにかして自分をアピールしたいという気持ちが、優れた芸術作品を生みます。つまり芸術家は、1パーセントの人たちの中で、エネルギーが良い方向に向いた場合だと思います。反対に悪い方向に向くとやくざになります。一般の世間には威嚇をしてしか入っていけず、自分たちのコミュニティーは小さいので、一般世間よりひとりに対する存在の割合が大きくなり、感情もやることも大きく、つまり世間一般から見れば大げさで過激にならざるをえません。だからすぐピストルで撃ち合ったりします。
暴走族もこの1パーセントの人たちに近い存在だと思います。ただ、思春期の若者の中には、誰にでも1パーセントの人たち的な感情が存在すると思います。この時期の若者は、切符を買えば遠くへ行けることも、どこかの国で戦争が起こっていることも知っています。でも、何もできません。遠くへ行くには切符を買うお金がいるし、学校は有休なんか取れません。選挙権もありません。でも、社会にアピールしたい。自分の存在に気付いてほしい。それの、方向のひとつが、あのクソうるさい、暴走族の音につながるんだと思います。
暴走族の音は「だれかオレに気付いてくれ」という気持ちの変化したかたちです。でもね、そんな稚拙な表現手段では、だれもキミには気付いてはくれないと思いますよ。