鷺沢萠さんは自殺

http://www.asahi.com/obituaries/update/0415/002.html
今までまったく知らなかったのですが『川べりの道』と吉田秋生さんの漫画が似ているのではないかということが問題になっていたそうです。真相は結局鷺沢さんが亡くなってしまったので闇の中なのですが、盗作はジャンルは関係なくクリエイターとしていちばん重い罪です。誰にだって好きな文章や気に入った映画のワンシーンとかは必ずあって、その雰囲気や空気を自分の作品の中に取り入れたいというのは仕方のないことです。だからといって、他人が心血を注いで作ったものをパクって良いはずがないです。盗まずに、その空気を自分の作風や、その言い回しを自分の文章に使ってみたりして取り入れればいいんです。
太宰治の『待つ』という小説の中に「私は、人間を嫌いです」という一文があります。これはものすごく太宰治的な言い回しだと思います。通常ならここは「私は、人間が嫌いです」と書くはずです。しかし「を」にすることでなぜか、理由はわかりませんが太宰文学の持つ「どろっとした、人間の弱くて醜い部分」みたいなものの雰囲気を際立たせています。「が」にしてしまうと、人間嫌いなことに変わりはないのですが、なにか水分がなく乾燥していて、すこし強さが出てしまって、例えば現代のパソコンから離れられないで家の中で一日中過ごしながら「2ちゃんねる」であらゆる世界情勢や政治を批判している若者の、人間嫌いに近い雰囲気になってしまいます。
もしある作家が、太宰治が好きでたまらなくて、そういう雰囲気の小説を書きたいなら、この「を」を使えばいいんです。「私は、人間を嫌いです」と書いてしまったら盗作です。でも例えば「母は、私を嫌いです」と書いても、それは盗作じゃない。知っている人が読めば「ああ、この作家は太宰が好きなんだな」と思うまでです。
1年以上前にも書いたことがあるのですが、香港のウォン・カーウァイ監督の『恋する惑星』という映画の色の使い方は、イタリアのダリオ・アルジェント監督のホラー映画『サスペリア』の色の使い方にそっくりです。でも、ウォン・カーウァイ監督はダリオ・アルジェント監督の映画をパクったわけではありません。誰がどう見たって『恋する惑星』が『サスペリア』のパクりのはずがありません。尊敬しているから取り入れたのです。こういう風にして影響を受けて自分の作品を作っていく。それが文化を向上させていく方法なのだと思います。
でもはっきり言って、これは本人の気持ちの問題です。どんなに小さな部分でも、本人が盗んだと思えばそれは盗作ですし、影響を受けて自分の作品を作ったと思えばそれは盗作ではありません。小堺一樹がいくら欽ちゃんに似てきたと言っても、それは欽ちゃんのパクりではありません。
鷺沢さんが『川べりの道』で文學界新人賞を受賞したのは18歳の時です。何が盗作で、何が影響を受けて自分の作品を作ることなのか、区別もついていなかったのかもしれません。もしそうなら、それを説明すればよかったのになと思います。いくらそう言ったって世間は盗作のレッテルを貼ろうとするかもしれません。そうしたら作家をやめればいいだけの話しです。通常ならば。まだ、自殺の原因はわからないけれど、もしそのことで悩んでいたのだとしたら、鷺沢さんは本物の、根っからの作家だったんだなと思います。文章を書くことだけが自分の価値、文章を書くこと以外では生きていけない、だから、作家をできなくなったら死ぬしかないんです。現代の日本の文学界には村上龍という「まだここまでいっていないから大丈夫」という最低基準があるのに。きっと鷺沢さんは本物だったんでしょうね。
もちろんまだ鷺沢さんの死については本当のことはわからないので、すべて推測ではありますが。