怒鳴りの効用

JRA日本中央競馬会)には、牧原由貴子さんと西原玲奈さんというふたりの女性騎手がいます。JRAの騎手は200人近くいるのですが、現在女性は牧原騎手と西原騎手のふたりだけです。
オリンピックの競技の中で、男女が別れていないのは「馬術」だけです。つまり、技術さえあれば男性と女性が同じだけ実力を発揮できるスポーツが「馬術」なんです。
しかし、JRAには女性騎手がふたりしかいない。ここには、明快な理由が存在します。それは「競馬はスポーツではない」ということです。オリンピックの乗馬競技はスポーツなのですが、競馬は絶対にスポーツではありません。
では何かというと、それは「勝負」です。今、生きるか死ぬかという今日の日払い給料を馬なんていう動物の走る速さにかけてしまう、何十年もかけて築いた全財産、人生自体を大穴につぎ込んでしまう。そんな死んでしまうことへの快感に酔っ払ってしまったしまった人々のギャンブルが競馬です。一般的にはスピードや死ぬの生きるののギャンブルに人間が魅かれてしまうのは、過去はあくまでも仮の姿で、大穴を当てて勝った現在こそが「本当」の自分なのだという、「生まれ変わって」生きたい欲望、つまり死にそうになったあとに助かりたい欲望が、そんな自らを破滅させるような行動に走らせると言われています。ただね、そんな理屈では言い表わせない、非常に危ない感性が人間にはありますよ。本当に死んでしまうことへの憧れ。人間は全員が万分の一を越えた確率を通りぬけ産まれてきます。なのに死ぬことはどんなに適当に生きても100パーセントの確率で全員にやってくる。そしたらね、自らの意思で死や破滅にかけてしまいたくなる人も現れてくるんです。
そこまでいかなくても、競馬は何百万人がお金をかけて、騎手は馬から落ちて後ろから来た馬に踏まれれば死ぬんです。
競馬はそういうジャンルです。スポーツではありません。
だから、女性騎手が入り込めない世界なんです。騎手はレース中に前を走っている騎手に怒鳴ります。「どけ!こら!殺されたいか!」と。時速60キロを越える馬の上に乗っているわけですから、そういう怒鳴り声に対する怒鳴られた方の騎手の反応は、反射的に行われます。日ごろのちょっとした、それでいて歴然とした人間関係が、レース中に一瞬の判断を騎手に生ませるんです。
牧原騎手も西原騎手も馬に乗る技術、今どれくらいスピードが出ているかとか、馬をまっすぐ走らせる技術はトップレベルです。しかし、どうしても活躍できない。それは女性騎手がいくら怒鳴っても、他の男性騎手は絶対によけないからです。競馬の騎手は、他人が死ぬか生きるかを自分の背中にかけられて走る、そして騎手本人も生命をかけて馬に乗る、そういう種類の人たちなんです。だから「どいてよ〜」とかわいい声で言われても、よけるわけがないんです。
まあ、中にはそこでこそよける男前もいるのでしょうが。