ホラー映画

ぼくはシンプルでわかりやすいものが好きです。その点で、ホラー映画が大好きです。ホラー映画はただ単に観客をおっかながらせればいいだけのエンターテイメントです。
かといって、ただ血のりをたくさん出すだけだったり、実際に起きた悲惨な事件をただ忠実に再現しただけのホラー映画は絶対にヒットしません。観ていて、心に傷を負うような、救われようのないような気持ちになる映画なんか、誰も観たいわけがありません。そして、そういう質の悪いホラー映画は観ても嫌な気持ちになるだけで、ちっともおっかなくありません。

それは、「悪魔が存在するためには、神が存在しなければならない」からです。悪魔、つまりホラー映画の主人公である化け物が存在すると観客に思わせるためには、この世に人間の想像力や科学を超えた“者”が存在すると思わせる必要があります。都合よく現実の世界に悪魔だけが“者”として存在すると思わせて、神が存在するということを描かない映画を作るというのは、エンターテイメントを作る者として、考えが浅すぎます。より質の高いボケほどツッコミが必要なのと同じです。

ホラー映画には大まかに分けて4つのジャンルがあります。「オカルト」と「スプラッター」と「サイコ」と「パニック」です。

「オカルト映画」は稲川淳二の怪談を映画にしたような、心霊現象や霊能者をメインにしたホラー映画で、代表的なものに、髪の毛の中の頭皮に666の悪魔の紋章を持った少年を主人公にした『オーメン』や、首が360度回ってブリッヂの体勢で階段を降りてくる悪魔に憑依された少女が主人公の『エクソシスト』や、呪いのビデオを見てしまうと1週間以内に死んでしまうという貞子の呪いを描いた『リング』などがあります。

スプラッター映画」はやたら残酷なやり方で人を殺す化け物が出てくる映画で、アイスホッケーのマスクにチェーンソーを持ったジェイソンが主人公の『13日の金曜日』や、チャゲのような帽子をかぶって鉄のかぎ爪をつけたフレディーが主人公の『エルム街の悪夢』などがあります。

「サイコ映画」はお化けが悪役ではなくて、実際に存在するかもしれない、頭のおかしい殺人鬼を主人公にしたもので、代表的なものに『羊たちの沈黙』などがあります。

「パニック映画」は凶暴な動物や、自然現象によって引き起こされる悲劇を描いたもので『ジョーズ』や『アナコンダ』が有名です。

ホラーにはセオリーがあります。これはホラーを一生懸命作ってきた先人たちが作り上げたもので、これを無視した映画は絶対におもしろく(おっかなく)ありません。

例えば、これは映画ではなく小説なのですが、小泉八雲の『耳なし芳一』という小説があります。盲目の琵琶法師(琵琶という楽器を演奏して霊を鎮める僧)の芳一は、仕えているお寺の住職が留守の時にやってきた、甲冑をまとった武士に「我々の宴会で琵琶を披露してほしいと」頼まれます。芳一は「平家物語」という平家の栄華と滅亡を描いた曲を演じる名人でした。芳一は武士の言うまま絢爛豪華な宴会の席に行き琵琶を演奏し、武士たちの大絶賛を受けます。ここまでは芳一の視線から描かれています。ところが住職が外出先からお寺に帰ってきた瞬間から、物語は住職の視線に入れ替わります。住職が見ると、芳一は、壇ノ浦の合戦で源氏に悲惨な敗北を喫した、平家の墓の前で、夜中にたったひとりで琵琶を演奏しています。宴会を催しているのは平家の霊なのです。ここで住職の視線に入れ替えること、読者と同じ一般の視線に入れ替えることが、この世に人間には計り知ることのできないものがあるということを、強烈に読者に印象付けます。歴史的には、栄華を極めた平家は、芳一のお寺にその墓がある通り、舞台である壇ノ浦(関門海峡)の合戦で新興勢力の源氏に滅ぼされます。平家側の安徳天皇(8歳)は母の建礼門院平徳子の胸に抱えられて壇ノ浦の荒波の中に入水自殺します。現在でも関門海峡周辺では、甲羅に人の顔の模様がある「ヘイケガニ」という蟹が生息しています。もちろんただ単に甲羅のでこぼこがたまたま人間の顔と同じ模様になっているだけなのですが、そういう背景も効果的な演出になっています。

つまり、お化けに魅入られている人間だけではなく、それを冷静に見ている人への場面転換は、もっとも効果的な演出のひとつです。

また、ヒッチコック監督の『サイコ』という映画で、ホラー映画史上最高のワンシーンとも言われる、シャワールームでシャワーを浴びている女性が殺されるシーンの演出をした、ソウル・バスという人は、観客をおっかながらせる方法は、ひとつしかないと言っています。それは、まず、音楽でもストーリーでもいいから「今から悲惨なことが起きる」と観客にわからせる状況を作り出すこと。そして大きな音で何かが起こる。しかし、それは猫であったり木の枝が折れた音であったりする。そこで間髪いれず「本物」のお化けを出す。これで観客は本心から驚き、ケチャップから本物の血を見るというのです。

どのジャンルでもそうなのですが、新しいものを作っていく者は、先人が作り出したものを消化した上で、新たに作っていかなければ、ただの意味不明な作品になってしまいます。伝統をそのまま守っていくだけでは進歩がありません。でも、今自分がいるステージがどのようにして出来上がってきたのか、そこを知った上で破壊していかないと、ただの意味不明な痛い過激なだけの芸になるのは必至です。
 そして、そんな浅い芸は誰も見たくないということです。