作家に必要なこと

ぼくは大学生のときに、小説や詩について研究するゼミに所属していました。そのゼミの学生は十数人くらいで、持ち回りで自由に研究してきたレポートを発表し、それについてみんなで議論しました。だいたい3ヶ月に1回くらい自分の発表があるのですが、ぼくはその中で2回、作家の容姿についてのレポートを発表しました。
そのゼミの学生は、実際に小説家や詩人になりたい人も多くて、大抵の発表は、作家に関する文学論的な研究か、自作の作品でした。
その中で、ぼくが作家の容姿についてまじめに論じたので、当然、笑いが起りました。ぼくは当時、大学対抗お笑いリーグに出場していて、みんなそれを知っていたので、笑いが起きるのも、まあ、当然のことでした。
ただ、ぼくは、笑いなんか求めていなくて、真剣に「作家は容姿も重要である」ということを述べていただけでした。

文庫本とかのいちばん最後のところには、作家の略歴とともに、顔写真が載せられているものが結構あります。ぼくはこれが、とてつもなく作品全体に対して重要だと思うのです。
その点で、最も成功しているのは太宰治です。ぼくは小さいころから文学を愛する少年で、ひたすら三島由紀夫の作品を愛していました。三島由紀夫と最も対極にある太宰治の作品はどれも、本当に嫌いでした。
ただ、作品と顔写真という点では、三島由紀夫太宰治の足許にも及ばないと思います。
太宰治の小説はどれも、女々しくて、自分を卑下することでかっこつけていて、一般的には「恥の文学」とか言われているけど、ぼくは「言い訳の文学」と思っています。
しかし、この太宰治の文学と、太宰治の見た目が、異常なくらい、ぴったりと一致しているんです。そのこけた頬と神経質そうな瞳、。頬に手を添えたポーズ。
もし太宰治が太っている人だったら、絶対に太宰治である説得力はないと思うのです。

これは、作家が写真や映像で写されることができる時代になってからの絶対的な法則です。
蹴りたい背中』で芥川賞をとった綿谷りささんもそうです。綿谷りささんの小説が素晴らしいのは当然なのですが、その上で、その容姿が重要なんです。綿谷りささんの容姿は、美人でかわいいのですが、その上で、どうしても「図書館」を思い出させる見た目をしています。
毎日電車に揺られながら新聞を読んでいるビジネスマンは誰がいつ芥川賞直木賞をとったか知っています。しかし、彼らは忙しいし、興味もないので図書館なんか10年以上行ったことがないんです。
でも綿谷りささんの容姿、見た目、オーラは、満員電車に揺られるビジネスマンの手を引いて、図書館に連れてきてしまいます。図書館には、臭いがあります。ビジネスマンは本屋さんにはよく行くだろうけど、本屋さんと図書館の臭いは違います。音も違います。

それが、作家と容姿の関係なんです。
半分、お笑いのようなことですが、半分、重要なことだと思います。