奇跡

「嘘のような本当の話し」ってあるじゃないですか。だいたい人間っていうのはある程度生きてくればこの「嘘のような本当の話し」を何回か体験するものです。お笑い芸人の場合はこれをいくつか「持ちネタ」として記憶していて、少し面白おかしく脚色して、すぐ引き出せるようにしている場合が多いみたいです。磯野貴理子さんなんかはそういう芸風だと思います。
それで、今から話すこともそういった「嘘のような本当の話し」なんですが、言っておきますが、これは一切脚色していません。すべて事実です。
ぼくはその時高校の帰りで数人の友人と一緒に拝島駅という駅にいました。その友人の中に「山ちゃん」という男がいて、山ちゃんの家は「奥多摩行き」という電車に乗らないと途中で乗換えをしなければいけなくて、面倒くさいんです。ところが「奥多摩行き」は本数が少ないから混んでいるんです。その時いた友人は、山ちゃん以外、ぼくも含めて全員「奥多摩行き」に乗らなくても帰れる駅に住んでいたので、ホームに満員の「奥多摩行き」が停車していることはわかっていたのですが、次の電車に乗ろうと思ってだらだらと歩いていました。そこで先頭を歩いていた山ちゃんがぼくらの方を振り返り「この電車に乗ろうぜ」といって後ろの「奥多摩行き」の電車を指差しました。その瞬間、山ちゃんの指が、そこをたまたま歩いていたおばさんの鼻の穴に、すぽんって突き刺さったんです。ぼくは1メートルと離れていないところから見ていたので間違いありません。山ちゃんの人差し指はおばさんの鼻の穴に第二関節まで確実に挿入されていました。おばさんの鼻の穴の大きさは大きくてもせいぜい1平方センチメートル。そこにぴったりどこにもかすらずにジャストミートする確率は万分の一を超えた、もはや奇跡です。山ちゃんは指に感じる生暖かさが自分の考えうる森羅万象の範疇の外だったため、1秒間の半分くらいフリーズしましたが、すぐさま後ろを振り返り状況を理解し、あわてて指を抜きました。するとおばさんは「あら、ごめんなさい」と言って、何事もなかったかのように立ち去りました。そこでまたぼくらは人知を超えた展開を目の当たりにした恐怖で立ちすくみました。駅を歩いていて突然見知らぬ高校生に鼻の穴に指を突っ込まれても、何とも思わない人間がこの世には存在する。そしてそれを事実として受け入れなければならないという現実。ぼくの頭の中はパンク寸前まで電気信号や脳内物質が錯綜していたはずです。
結局ぼくらはその後1時間近く笑い転げていたので当然「奥多摩行き」には乗れませんでした。
最初にも言った通り、これはすべて事実です。奇跡は本当に起こるんです。