カラカラとシットリ

ぼくは鶏肉の料理が大好きです。
今、世の中は無機質な感じへ向かっている気がします。無機質というのは、「どっちの料理ショー」でこだわりの比内地鶏を育てている農家の人を紹介して、その次の映像がスタジオで「これがその地鶏でーす!」と言ってシェフが布をはがすと、そこにきれいなささみ肉があって、草薙剛磯野貴理子が手を叩いてよろこんでいる感じです。当然、農家とスタジオの間にはニワトリを殺す職業の人が介在するのですが、それが、あたかもないことのように演出するのが、無機質な感じです。何もわざわざニワトリを殺すところを、子供も見ることのできるテレビで放映するのは、絶対に問題があるのでしてはいけないことですが、今の世の中は大人もそういう現実を忘れている気がします。魚料理の職人はお客さんの目の前で魚を殺しても、何の違和感もないし、むしろ新鮮さが感じられて美味しそうに見えます。最近は残酷だからやらないのかもしれないけれど、10年くらい前までは、いけすからすくった生きた魚を鮮やかに包丁でさばいて、食べない部分の頭と胴体の部分の骨としっぽだけをまたいけすに戻すと、その頭と骨としっぽだけの魚が、さっきと同じように普通に泳ぐというのをテレビでも時々放映していました。それは料理人と包丁を作る職人の技術の結晶で、彼ら職人は、魚がいなければ自分たちは生きていけないという、魚に対する感謝といとおしさから生まれた見事な技でした。
しかし、これが魚から哺乳類や鳥類になるといっぺんに状況が変わってくる。お客さんが座るカウンターの目の前でステーキを焼く料理人が、お客さんの目の前で牛を殺しだしたら、そんな店には誰も寄り付かなくなります。
何年か前に、ナインティナインの番組に、ジャッキー・チェンと共演したアメリカ人の俳優が出演していました。その番組はカウンターの目の前でステーキを焼く店で、ナイナイとジャッキーとそのアメリカ人の俳優が食事をする内容だったのですが、そのアメリカ人の俳優は肉を焼くところでは、美味しそうだなあという感じではしゃいでいたのですが、生きたままのエビを鉄板で焼き出したところ、手で目を覆ってお店の隅に逃げてしまいました。日本人や中国人には違和感のない魚介類を生きたまま焼くという行為が、アメリカ人には怖いものに写るのです。
タイやフィリピンには「バロット」というゆでたまごがあります。アレルギーでもない限り、日本人は普通にゆでたまごを食べます。鶏肉の料理、例えば焼き鳥やから揚げも普通に食べます。鶏肉を卵でとじてご飯にのっけた親子丼も食べます。ところが、このバロットというゆでたまごは、殻をむくと中身が既にひよこになっています。つまり孵化する直前の有精卵のゆでたまごなんです。ぼくは生卵も食べられるし、焼き鳥も親子丼も大好きです。でも、今バロットを目の前に出されたら絶対に食べれない。不可能です。
どっちの料理ショー」でシェフが作る料理は、それはもうよだれが出るほど美味しそうに見えます。でも無機質な感じ、どこかカラカラした乾いた感じがある。どんなに画面に近づいても、料理で味に匹敵して重要な要素である“匂い”がないんです。テレビから匂いが出るわけがないんだけれど、画面に近づけばそれがただの赤と緑と青の光りの組み合わせなんだなと、画面の遠くから見ていても感じてしまう。
それに対して、バロットはいやがおうにも、シットリとした部分、好きだからこそ見えてしまう、つらい部分を感じさせます。でもね、バロットを食べたって死ぬわけでもなんでもないんです。卵も鶏肉も食べられるのだから、ましてや親子丼を食べれるのだから、バロットを食べれないわけがないんです。生まれ育った環境の違いによって、バロットを目にしたことがなかったから、バロットを食べることがつらいだけなんです。鶏肉が好き、卵が好き、ネギマが好き、ケンタッキーが好きということではなくて、ニワトリが好きなら、バロットは涙を流してでも食べなければならない道です。それが真実のよろこびであり、好きと愛の差です。