超アイドル伝説

私の歌っている顔は
辛そうな顔をしている時が多いような気がする。
本人が意識してそうしている訳ではないのに、
見るたびに「ああまたか」と思う。
辛い歌なんてないのに…。
加藤紀子

ストーカーという言葉が一般的に使われるようになってずいぶん経ちました。ストーカーとは、ある特定の人、特にアイドルなどの有名人に、相手が嫌がっているのにもかかわらず、付きまとう人々のことを言い、殺人にまで発展することがあります。こういった人々は昔から少なからず存在したはずですが、なぜ最近になって、このストーカーによる犯罪が、多発するようになったのでしょうか?


おそらく、その原因のひとつに、テレビなどの情報提供メディアの急速な発展が考えられます。テレビはおびただしい量の情報を流しては消えていきます。その情報に対する実際の事柄、その情報の向こう側にある、実はどんどん価値を失っていっています。月並みな言い方をすれば、情報化社会というやつです。
その中で、学校と塾と家の中だけで生活を規定されている子供たちは、狭い勉強部屋という密室の中で、テレビの生産する情報だけを大量に消費していきます。彼らが実際に生活を営んでいる、生活圏はどんどん小さくなり、情報圏はどんどん大きくなっていきます。インターネットが身近になった今、彼らの情報圏はまさに生活圏に反比例して無限に膨大していっています。そして彼らの中で、本来はただの記号であるはずの情報が、つまり、本来の事柄に対して、虚であるはずの情報が、「実」に成り代わるという逆転が発生します。〒こそが「実」であり、実際の郵便局には意味がなくなってしまうわけです。
しかし、いくら現代において情報が重要だからといって、その情報の意味するところの、実際の事柄の中にも、受け手側の人々と同じ生活があり、しかもその接点は電波やADSL回線でしかないわけで、両者の生活圏は決して同一ではありません。情報はあくまでも、ただの記号であり、記号が意味するところのものが実際のものです。その実際のものを私たちが知るために使っているのが、テレビや新聞やインターネットなどの情報という記号です。
ところが、情報圏が生活圏より大きくなってしまって、ほとんど情報圏の中だけで生活しているような人たちには、情報という記号が自分たちの生活圏になってしまっているのです。しかし、生きた人間である以上、記号としてだけ存在することは不可能ですから、彼らの記号だけでできている生活圏は、かれらの行くところ、例えば職場や学校や家庭でも展開されてしまいます。だから、長崎で駿くんを殺した少年は、駿くんが泣き出したから、駿くんの生命を消したのではなくて、駿くんという記号を消しただけなのかもしれません。
これはあくまでも極端な例ですが、テレビに出ているタレントが、他のタレントの悪口を言ったときにムッとしたことは誰にでもあるはずです。ブラウン管に顔を近づければ、それはただの赤と緑と青の光なのに、みのもんたはむかつくでしょう?デヴィ夫人が嫌いでしょう?これは仕方のないことで、テレビなどの情報提供メディアができたときから発生してしまった、危険な進歩の証明なんです。


こういった状況から、ストーカーが生まれてきます。彼らの中では、完全に情報という記号にしか意味がなく、生活圏の100パーセントが情報だけで占められていると思われます。昔の恋人に付きまとうストーカーの中には、かつて自分を愛していた恋人の情報がたくさんつまっています。そこに、ふられるという、見知らぬ記号が突然侵入してきます。しかし、そんな突拍子もない情報は、かつて地球がまるいことを信じられなかった人々と同じで、信じられるはずがありません。情報や記号といったものは、理論的に計算があっているほうが価値の高いものです。しかし、情報しか理解できないやつがどう思おうと、人間は理由もなく、人を好きになったり嫌いになったりするんです。彼らにはそこが理解できない。説明しようにも、理由がないのだから私たちにも言葉がないんです。だから、彼らは今まで通りに「恋人」を見つめ、体に触れようとします。今でも「恋人」である昔の恋人に新しい恋人でもできようものなら、自分の「恋人」を横取りされたことに怒り狂い、つまらないテレビなど電源を切って「恋人」と楽しい時間を過ごそうとするのです。
言うまでもなく、アイドルと呼ばれる人たちは、現代社会の中で、情報として、記号としてのみ存在しています。逆の言い方をすれば、情報・記号としてしか、アイドルは存在できないのです。アイドルという言葉の語源である偶像が意味する通り、彼らはファンという信者にとって、仏像や十字架でしかなく、その仏像や十字架に対する神の部分は存在しません。アイドルはファンにとって、ブラウン管をところ狭しと跳びまわるチュンリーと、なんら変わりありません。ところが問題なのは、チュンリーにはない生活圏が、アイドルには存在することです。アイドルは、ファンにとって情報のみの存在であるにもかかわらず、彼らは人格をもった人間という生体として存在してしまっているのです。
情報が唯一の価値観になってしまっている人たちは、クラスメイトに「恋」することと、アイドルに「恋」することに違いがありません。彼らはクラスメイトやアイドルという情報に「恋」するのです。一個の人格に恋するのだったら、決してアイドルに恋することはできません。そして、この情報に「恋」する人がたくさん現れていて、しかもそれほどめずらしい存在ではなくなったからこそ、『ときめきメモリアル』は、奇抜な、理解不能な、猟奇的なゲームではなく、「楽しい」「等身大の恋を描いた」「大ヒット」ゲームとして世間に認められているんです。そして、現代人には生活していくうえでの当たり前のこととして、必要な情報は手元に収集し、つまり自分のものにし、要らない情報は処理してしまうという概念が植えついています。『ときメモ』やチュンリーの情報をどう処理しようがなんら問題はありませんが、アイドルやクラスメイトの情報を処理しようとすることは非常に危険で、問題です。アイドルの情報だけを処理するということは、アイドル業界でとてつもなく力を持つ人が、どうにかできるかできないかというレベルの話しで、たったひとりのファンがそれをしようとすれば、アイドルの生活圏、つまりアイドルという情報をを演じていない「アイドル」にまで立ち入って処理しなければなりません。またクラスメイトなどの身の回りの人は、もともと情報とそれに対する実が接近しているので、情報を処理すること自体が、その実を処理することになります。
これを、してしまった人たちが、ストーカーと呼ばれるのです。
ストーカーは被害者に対して、あくまでも加害者です。許されざる犯罪者であり、どこまでいっても同情の余地はありません。しかし、ある意味では、情報提供メディアの発達した現代社会の、間接的な「被害者」とも言えなくはないのかもしれません。


『ミュージック・ステーション』を見たことがあるでしょうか?タモリが他の出演者としゃべっているときに、画面にちらちらと映るアイドルたちの瞳は、私には、疲れきった、悲しい瞳に見えます。アイドルたちはもともとクラスの人気者だったのだと思います。その特技を生かして、より多くの人と仲良くしようとしたのでしょう。そして夢がかなってアイドルになりました。しかし、そこには微妙な計算違いがあり、気が付くと、自分を応援してくれる人々はクラスの仲間という同じ生活圏の人間から、ファンという視聴者に変わっていました。そこにはかつて、クラスの仲間と楽しんだ関係はありません。あるのは、信者とは心の通わない教祖である自分と、名前も顔も知らない信者たち。そして、自分だけは教祖と心が通い合っていると思い込んでいるストーカー。それでもアイドルたちは、クラスの仲間と同じように、ファンとも楽しみたいという、かなわぬ願いを心に持ち続けているのではないでしょうか?だからあんな悲しい瞳をしているのではないでしょうか?


途中でも言った通り、人は理由もなく人を好きになったり嫌いになったりします。しかし、理由がない以上、一度ストーカーになってしまった者を説得するのは不可能です。法律で警察が取り締まるしかすべがありません。しかし、それには限界があります。警察だってひとりの被害者だけを24時間警備しているわけにはいきません。しかもこれからますますストーカーが増えていったら、よりひとりに対する警備が手薄になることは明らかです。だから、これからの子供たちを、ストーカーのような、人の心を持たない「人間」にしては、絶対にいけません。
そのためにはどうすればいいのか?人の心を持った人間にするためには、おとなたちはどうしたらいいのか?それはきっと、とても簡単なことだと思いますよ。普通に、恋をして、友だちを作って、笑って、泣く。それができる環境を作ればいいだけです。子供が悲しんで泣いていたら、いちいち理由を聞いて傾向と対策を述べるのではなくて、ただ黙って抱きしめてやる。それだけのことだと思います。
それができないようじゃ、いくら地球上に「人間」が生物の種類として生存していても、あっという間に人類滅亡ですね。